日臨心61回大会
[大会テーマ]
「ともに」を模索し考える
ーーその難しさと、楽しさを体験しながら
岡山大会のテーマを考えて
「ともに」は、まず「分かち合う」ことでしょう。分かち合えば、喜びは倍になり悲しみは半分になるこうよく言われます。
ただ、それは「仲間同士」に限られていることが多いのではないでしょうか?
また、仲間同士でも、本当に分かち合いたいことには、デリケートで難しく、表現できないことも多く、しばしばすれ違ってしまいます。
そもそも分からないことだらけです。深く分かち合おうとすると、コトは複雑化し危険な事態を招くこともあります。
「ともに」はまた、自分とは違った人々との「共生」を意味しますが、それも簡単なことではありません。
「差別」という問題にも重なっているからです。「共生」のためには、まずはお互いの違いを認め合うことと人々の「多様性」が尊重されることが不可欠です。
しかし、現実の世界のなかでは、さまざまな難題が次々に立ち現れてきます。
そんな中私たちは、「共生」を「対話」に連結させ、絶えざる努力と工夫をしながら「対話」を続け、
どのように「共生」を少しずつでも実質的で意味のあるものにできるか、これを考えたいと思います。
「対話」は、かなり前から、キーワードのように話題にされてきていますが、同質性が前提になっている組織や社会では、それは「分かち合い」よりもずっと大変で、
容易ならざることが実は多いと思われます。そして、形式や儀式性が高く評価される社会では、表面をとりつくろうのに忙しく、「対話」は単に掛け声だけになっていることも大いにあるのです。
この辺りの実際を具体的に話し合い、問題や課題を分かち合うことはできないものでしょうか?「ともに」を単なる空念仏にしないために、この大会を「ともに」学び歩んで行く道にしたいと本気で考えています。
そして、大会を単なるお祭り=イベントにしないために、何ができるか、どうしたらいいか? これを絶えず模索して行きたいのです。「ともに」です。
岡山大会のテーマを考えて
「ともに」は、まず「分かち合う」ことでしょう。分かち合えば、喜びは倍になり悲しみは半分になるこうよく言われます。 ただ、それは「仲間同士」に限られていることが多いのではないでしょうか?
また、仲間同士でも、本当に分かち合いたいことには、デリケートで難しく、表現できないことも多く、しばしばすれ違ってしまいます。 そもそも分からないことだらけです。深く分かち合おうとすると、コトは複雑化し危険な事態を招くこともあります。
「ともに」はまた、自分とは違った人々との「共生」を意味しますが、それも簡単なことではありません。 「差別」という問題にも重なっているからです。「共生」のためには、まずはお互いの違いを認め合うことと人々の「多様性」が尊重されることが不可欠です。 しかし、現実の世界のなかでは、さまざまな難題が次々に立ち現れてきます。
そんな中私たちは、「共生」を「対話」に連結させ、絶えざる努力と工夫をしながら「対話」を続け、 どのように「共生」を少しずつでも実質的で意味のあるものにできるか、これを考えたいと思います。
「対話」は、かなり前から、キーワードのように話題にされてきていますが、同質性が前提になっている組織や社会では、それは「分かち合い」よりもずっと大変で、 容易ならざることが実は多いと思われます。そして、形式や儀式性が高く評価される社会では、表面をとりつくろうのに忙しく、「対話」は単に掛け声だけになっていることも大いにあるのです。
この辺りの実際を具体的に話し合い、問題や課題を分かち合うことはできないものでしょうか?「ともに」を単なる空念仏にしないために、この大会を「ともに」学び歩んで行く道にしたいと本気で考えています。
そして、大会を単なるお祭り=イベントにしないために、何ができるか、どうしたらいいか? これを絶えず模索して行きたいのです。「ともに」です。